MYSELF

2024 by Yuki Takai

年末に行った台湾の羅東運動公園からの景色

あまり誕生日や年始に節目の意味を持たせたり抱負を立てたりしないので、2023年も相変わらず日々を過ごしていたらあっという間に過ぎ去ってしまったなと虚しくなりかけながらも、ここ数年を振り返ってみればちゃんとそれなりに歩みを進めているのが我ながら自分のいいところだと思う。

一昨年の6月にTakramにジョインしてから早くも一年半が経ったけど、幸いまだ新鮮にアンラーニングとラーニングを続けられている。

よく人は周りにいる人でつくられると言うけれど、環境が変わってもここはちゃんとバリューが出せるなと確認できたことも、これはもう一段気合い入れてレベル上げないといけないなと感じることも、いやこんなすごい人たちもいるんだなと脱帽することもあり、有り体に言ってとても健全な緊張感と刺激のある環境だ。

本やPodcastからのインプットも格段に増えたし、この歳になってもう一度成長のスイッチを入れられたのはありがたい。英語も少しずつ勉強し直し始めたし、年齢的なこともあってジムや整体での身体のメンテナンスにも気を使うようになった。

去年プロジェクトディレクターのライセンス取得も済ませたので、今度はよりプロジェクトを率いる中でのトライを重ねながら学びとバリュー還元のサイクルを回していきたい。

もう一足の草鞋であるSandSの方も面白い転がり方をし始めていて、2023年は奥大和で開催された芸術祭MIND TRAILでアーティストデビューを果たした。

個人的にはいちアートファンからコレクターになり、それからアーティスト野村康生さんとのユナイテッドという取り組みに発展したり、ロフトワークの最後の仕事では大丸松坂屋百貨店と一緒にアートプロジェクトARToVILLAを立ち上げたりと、それぞれは決して直接つながってはいないものの、とうとう自分たち自身がアーティストとしてクレジットされることになったのは感慨深くもあり愉快でもある。

これからさらにその方向に進むのか一度きりで終わるのかはまったく分からないけど、いずれにせよ今年も面白い方向に転がってくれたらいいなと思う。

プライベートでは、これもまた乗りと勢いとある程度の計算の結果、11月に長野に土地を購入したのもひとつのイベントではある。

まあ住むにしろ遊ぶにしろ先立つものがないのでいずれにしても今年というよりは早くても数年後にはなるけれど、約900平米弱のそこそこ広さのある区画になったので、どうするか考えるのを気長に楽しもうと思う。

まずは年始にひいた風邪を治すところから始めます。

2016 by Yuki Takai

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日常に飲み込まれて忘れてしまわないうちに、今年もちょっとだけ振り返りと抱負めいたものを書き留めておこうと思う。

3年1周期の最終年として2015年に掲げた抱負のひとつは、「改めて足元を踏み固めて土台を積み上げ、ひとつここまで来れたなと納得できるように仕事をする」こと。
何か分かりやすい結果だとか目に見える成果が出せたわけじゃないし、いつだって満足できる仕事ばかりじゃないけど、プロジェクトの規模も難易度も上がっていく中で、曲がりなりにも全部やりきってこれたことには、それなりの手応えを感じられたし、仕事したなって実感は持てた。

2016年もきっと相変わらず(そしてたぶん今まで以上に)難しいことや大変なことはあるだろうし、もしかしたら周りからは「なんでまたそんな大変なところへわざわざ」みたいに思われることもあるかもしれないけど、自分で必要な経験だ、自分がやるべきものだって選んで飛び込んでいるからそれは全然納得しているというか受け入れている。
たぶん大事なのは、正解のルートなんてものは存在しないとしても、選べる範囲で少しでも正しいと思える方向を自分で選択し続けていくっていう意識で、そう思えれば後悔なんてしないし、大抵のことは背負えるはず。まだ何が見えたわけじゃないけど、そうやって段々向かうべき方向に向いてきた気はしている。何となく。
仕事は全力最善を尽くすだけだから特に抱負にはしないけど、近いところでは、自分のためにも、今年はもっと組織やチームを良くすることや、価値を可視化することの力になれたらいいなと実は思っている。

もうひとつ、2015年に立てた抱負は、「個人として向かいたい方向へハンドルを向けて、外に一歩足を踏み出す」ことだったけど、これは丸々宿題として持ち越してしまった。
この3年1周期という思い付きに沿えば、2016年は新しい3年周期の初年度になる。そう考えればこれはこれから始まる3年間で形にしていくことなんだと思う。そのためにも、今年はじっくり自分の中にあるものを棚卸ししてみたい。好きなもの、心動かされるもの。したいこと、やってみたいこと。できること、求めてもらえるもの。なりたかったもの、達成したいこと。思えばモデレーターイベントプロデュースも去年初めてできたことだし、少しずつ広がっているものは確かにある。

未来はいつだって、予想と違う方向や速さで拓ける。
また来年振り返ってこの一年が全然思っていたものと違っていたとしても、きっとそこに来てしまえば、不思議となるべきようになったような気がするもので、そういう運命論めいた何かをポジティブに受け入れながら、転がっていく2016年を楽しみにしたいと思う。

今年もよろしくお願いします。

物語が欲しくなるとき by Yuki Takai

本でも映画でも漫画でもアニメでも、無性にたくさんの物語を摂取したくなる時期というのが年に何度かあって、ろくに中身も見ずに本屋で無造作に5冊くらい文庫本を買ってきたり、ふらっとレイトショーを観に行ったりしたくなる。

何度もそういう時期を迎えるうちになんとなく分かってきたのは、それが訪れるのはどうやらあんまり調子が良くないときだということ。

戦争のような祭りのような忙しさの中にいる間は、余裕のないせいか、はたまたアドレナリンが出てるせいか、そんな気分になることはなくて、どちらかというと、うまくいかない仕事に対しての気の進まなさや、漠然としたこの先どうしようかという不安とふと目が合ってしまったときに物語が欲しくなる。単なるささやかな逃避なのかもしれないし、何か変化のきっかけや刺激を求めてるからなのかもしれないけど。

もしこれが、イマジネーションや面白いことを考える活力のストックが枯渇してきているサインなんだとしたら、直接的な特効薬になりそうなテクノロジーやクリエイティブ系の情報を摂るのが良さそうな気がするけど、直感に背いて雑誌やそういう本を買ってしまうと、不思議とだいたいうまく消化できずに枕元に積まれることになる。

甘いものをやけ食いするように、新しい素材が鍋の中のスープと化学反応を起こしてくれるのを期待するように、とにかくインプットを増やして樽の中の澱を押し出すように、頭に物語を放り込んでいく。

大概はそれで都合よく気分が切り替わるような面白いアイデアや新しい興味が見つかるなんてことはなくて、そうやってやり過ごしていくうちにまた忙しさに飲まれていって、なんとかこなしていくうちにいつの間にか調子を取り戻していく、という繰り返し。

でもいつか忘れた頃、元の作品もシーンも分からなくなった頃に、ふと思い浮かぶ一小節やそのときの情感がどこかで何かに生きるかもしれなくて、よく分からないけどきっとそういうことなんだろうと思う。

押し出された澱として書いた829文字。 

2015 by Yuki Takai

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あまり新年の抱負や目標を立てた覚えがない。

初詣に行っても、だいたい健康に過ごせることと、仕事とプライベートが順調であるように、というざっくりしたお祈りをその時々で行った先の神様にしている。特段そういう主義というわけでもないけど、その場で「今年はこれ!」というものが思い当たらなくて、「ま、1年後に良い年だったなと思えるようにしよう」と根拠なくポジティブに切り替えるきっかけくらいになっている。

今年は会社で年末に書き納めと、年始に書き初めがあったから少し困った。どちらで書いた抱負も、もちろん嘘ではないし真面目に考えたけど、実は寸足らずのような丈の長いような、ちょっと着心地の悪い感じが残っている。

晴れやかな気持ちで、新しく大きな決意を掲げたい気持ちはあるけど、その気持ちに見合う何かを成すには1年では短すぎる気がするし、1年で成せるサイズの目標を立てて、タスク消化をするようにこれからの1年を過ごすのもいまいち気が乗らない。
1年では短いし、5年先の未来は予想がつかない。とすると、3年周期くらいのサイズ感が性に合っているのかも知れない。そう考えると、今年は今の仕事を始めて実質3年目だということに思い当たる。

2013年はスタート。
前年の秋にロフトワークにジョインして、クリエイティブの領域で走り出した年。ただでさえ初めてのことだらけの中、会社としても新しいチャレンジとしてKOIL立ち上げのプロジェクトにどっぷり浸かった。ものすごく大変だったけど、その分アドレナリンも出てたせいか、思い返せば楽しかった。

2014年は山あり谷あり。
これまで発信し続けてきた縁がつながり、3月に開催された 3331 Art Fair の企画に関われたし、4月には無事KOILもオープンさせることができた。年の後半は、力不足もあってなかなか思うように進められずに苦しい場面も多かった印象で終わってしまったけど、今振り返れば、前半は成果が出たおかげで割とスポットライトも当ててもらえたし、夏には結婚もして、充分ハイライトもあった年だった。例年にも増して、すごくあっけなく過ぎ去ったように思えたのは、その分濃い1年だったからかも知れない。

ロフトワーク3年目の2015年は、ひとつの集大成にしたい。
ここまでの2年間は、ある意味意識的にがむしゃらに走ろうと思ってきたし、実際にそうして走り抜けたと思う。それが必要だったと思うし、だからこその今があると思うけど、その分すっ飛ばしてきたこともあるはず。だから今年は、改めて足元を踏み固めて、ちゃんと自分の土台を積み上げたい。何か目に見える結果が出せるに越したことはないけど、ロフトワークのクリエイティブディレクターとして、ひとつここまで来たな、と思いたい。自分でそう納得できるように仕事をしたい。
そして、その外に一歩足を踏み出したい。「クリエイションに評価と対価が巡る仕組みを作りたい」なんて掲げているけど、正直これまでの2年間は何にもできてない。それも駆け抜ける中ですっ飛ばしてきたことのひとつ。もちろん 3331 Art Fair へのコミットはその一歩だとは思っているけど、次の3年で、もっとちゃんとパワーを割いてアクセルを踏んで、個人の高井勇輝として踏み出したその足を広げていけるように、まず今年はどの方向にハンドルを向けるのかを定められればいい。
これから行う結婚式だってある意味自分たちで作れるクリエイティブなプロジェクトだし、敬愛すべき広告キャンプのメンバーともまた一緒にブギーでロックな企みをしたい。多分きっと、そういう中から自ずと見えてくるものがあるんだと思う。

そしてその次の3年は、…まだ予想がつかないけど。
ま、また振り返った時に良かったなと思えるようになっていればいい。

今年もよろしくお願いします。

未知の領域に挑み続けるクリエイティブディレクター:高井 勇輝 ロフトワークディレクター分解シリーズ Vol.5 by Yuki Takai

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ロフトワークのディレクターを一人ひとり紹介するコーナー、ディレクター分解シリーズ。

今回は入社して間もなく大プロジェクトに抜擢され、全く未体験の領域にも関わらず見事やり遂げた高井が登場。若手ながらバランスが良く安定感があり、周囲からの信頼も厚い今後の進化が楽しみなディレクターです。
(聞き手:PR石川)

ー前職は何をされていましたか?

インターネット広告会社に新卒で入社し、アカウントプランナーとして、不動産や化粧品、健康食品、ゲームコンテンツ等、幅広い業種のクライアントを相手に提案からディレクション、そして運用まで一連して担当していました。スピード感あるベンチャー気質の会社で、プッシュ営業もやりましたし、代理店、メディア、クライアントと、様々なステークホルダーに囲まれて仕事をしてたので鍛えられましたね。
クライアントとメディアの間に立って調整しながらプロモーションプランを実施していくのは、今のロフトワークでやっているディレクションに共通するものがあると思っています。

ーどういう案件が得意ですか?今までどのような案件に関わってきましたか?

2012年11月に入社したので、ロフトワークに来てちょうど1年半(インタビュー時)、Webサイトリニューアルやコンテンツ案件も担当してきましたが、他にも新規自社サービスの立ち上げとか、空間ディレクションや、新しいCMS導入など、ロフトワークのディレクターの中でもかなり幅広く関わっている方だと思います。結果的にまだ誰もやったことないような新しいタイプのプロジェクトが多いかもしれません。
ちなみに、ロフトワークに入社するまでWebのディレクションはほとんど経験がありませんでした。HTMLは知っているけど書いたことはない、Photoshopなどのデザインツールは多少触ったことがある程度で、制作系の知識は充分とは言えませんでした。

ー柏の葉のオープンイノベーションラボ「KOIL」が4月にオープンしました。高井さんはこのプロジェクトにずっと関わっていたそうですね?

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三井不動産のイノベーションセンター「KOIL(Kashiwa-no-ha Open Innovation Lab.)」プロジェクトにおいて、ロフトワークはコンセプトの提案から空間デザイン、会員システム、Webサイトまで幅広くクリエイティブ全般をサポートしてきました。

KOILは、電磁石の「コイル」をイメージしていて、「磁場」となっていろんな人が集まり、場所や僕らが触媒となって、いろんな人が交わって刺激しあって、イノベーションが起こるエネルギーが生まれる場所にしたいという思いから名付けられています。

僕は入社1ヶ月後にこの大きなプロジェクトに携わることになったのですが、担当したのは結果的に非常に多岐に渡っていて、空間ディレクションから、会員管理システム構築、映像音響設備プランニング、プロトタイピング機器プランニング、インターネット環境プランニングから、気付けば最終的には運営計画の部分含めて全体に関わっていました。

成瀬猪熊建築設計事務所が空間設計を担当し、バッタネイションの岩沢兄弟とも一緒に家具の設計をしたのですが、自分で空間のコンセプトを決めてぐいぐい推し進めるというよりは、僕は運営側からの必要な視点でのフィードバック、逆に建築現場からの意見を運営側にフィードバックしたり、全体を俯瞰して、要望をそれぞれのプロフェッショナルに上手に伝えて間をつなぎ、彼らに十分に力を発揮してもらえるようにすることを心がけました。

インターネット環境プランニングでは、どのWiFiルーターをいくつ・どの構成で置くか検討したり、また「KOIL FACTORY」に設置する、レーザーカッター、3Dプリンター、3Dスキャナー、3Dモデラー、その他工具一式といったデジタルファブリケーション機器や、KOIL全体の映像・音響機器のディレクションと調達も行いました。
もちろん、僕はこれらの分野のプロフェッショナルでは全然なかったので、それぞれの専門家とコラボレーションしながら、手探りながらもプロジェクトを進めてきました。

また会員管理システムの構築に関してはメインでディレクションとプロジェクトマネジメントを行っています。 会員情報のDB、申し込み機能から課金システム、予約システムなどと連携が可能なパッケージを検討し、Bplatsを導入しています。施設予約システムに関してはリザーブリンクを採用しました。

ー同じプロジェクトでも本当に多岐に渡る案件に携わってたんですね…。なんというか、全体俯瞰できて、フットワーク軽くて、気が回る高井君だからこそ、役割を果たせたんじゃないかと思えてきました

はい、どこからどうボールが転がってくるか分からないから、とにかくレシーブしまくった感じです。
大小含め、タスク量はすごく多かったですね。
プロジェクトマネジメントともディレクションとも違う、例えて言うならサッカーの「ボランチ」みたいなイメージで、フットワーク軽くセカンドボールを拾って、適切な相手に展開してプロジェクトがスタックしてしまわないように前進させることを意識しました。
例えばなかなか捕まらない代表の諏訪と林を捕まえて意思決定の場を整えるとか。
とにかく、来たボールをしっかり展開して、彼ら(設計する人間やコンセプトを決める人間)のアシストをすることに集中しました。

ー言い方は良くないですが、「最強の雑用係」だったんですね!

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はい、まさにそんな感じです(笑)

ーでもフォロー力と処理能力が高くないと務まりませんからね。スーパーマルチプレイヤーということにしておきましょう!
…苦労話とかありますか?

この規模の「イノベーションセンター」をつくったのは日本初で、誰も見たことのない正解を知らないものを創らなきゃいけない中、建築とか空間とかシステムとか、全部ほぼ未経験の中、初めてのことだらけで全部手探りの大変さは当然ありました。 担当クリエイティブディレクターとしてこの大きなプロジェクトに関わっているというプレッシャーは常にありました。
これだけの規模のプロジェクトとなると、ステークホルダーも多く、皆頭のなかに描いている画が微妙に違うのは仕方がありません。
その中でひとつずつ合意形成していくのも大変でした。でもだからこそ、相対するのではなく、みんなで同じ目標や課題を見据えて進めることができたという面もあって、クライアントと同じ方向をみて進められたところは良かったと思います。
あとは発注が来なくて動けないとか…そういった苦労は、往々にしてありましたね(笑)。

ー話変わって、これから伸ばしていきたいスキルはなんですか?

新しいサービスをつくってみたいと前からずっと思っています。
KOILではプロジェクトを描くというよりは推進していくという役割だった反面、今後はもっとコンセプトメイキングなどができるようになりたいです。価値ある「0→1」を描き「1→10」を着実に積めるのが本当のクリエイティブディレクターだと考えていて、リーン・スタートアップやグロースハックのスキルもそのために要るものだと思っています。

なので、クリエイティブディレクターという肩書きは重いですが誇りでもあるので、本当の意味での「クリエイティブディレクター」になるべくこれからも頑張ります!

未来には運命なんてないと思え 過去は正しく定めと思え by Yuki Takai

挨拶もさせていただいたので重複する部分もあると思いますが、節目なので改めて書き残しておきたいと思います。

2012年10月31日をもって、インターンアルバイトから4年間過ごした株式会社セプテーニ・クロスゲートを退職しました。
二晩明けて、最後にいただいた色紙の3面にわたる寄せ書きを読んで、ちゃんと見ていてくれたんだなー、としみじみ感謝を噛み締めています。

本当に、いや本当に(笑)、大変なこともつらいこともたくさんあったけど、ここまで頑張ってこれたのは間違いなく、同期をはじめ、真面目で泥臭くて負けず嫌いでどこまでも一生懸命な、愛すべき仲間がいたからです。周りの仲間の頑張りを裏切れないな、みんなの頑張りが報われてほしいな、と思える環境に新卒で入れたのは本当に幸せなことだったなと思います。

細切れに分業化された仕事のパーツだけでなく、提案からディレクション、運用、納品まで全工程に関わって、アカウントプランナーという職種名以上に広範な経験ができたこと。そして、Webプロモーションという時流の早い中で、運良くフラッシュマーケティングやソーシャルゲームといった、その時々で「旬」なクライアントを担当させてもらいながら来れたこと。年次や実力以上に大きなクライアントを受け持たせてもらえたこと。
まだまだ小さな組織だったから、いずれももしかしたら「やらざるを得なかった」という方が正しいかもしれないけど(笑)、それでどれだけ貴重な経験をさせてもらって、成長させてもらえたことか。本当にありがとうございました。

ずっと、たとえどんなことがあろうと、少なくとも「逃げたな、自分に負けたな」と思って去りたくはないとだけは思っていました。何か具体的な形として成し遂げられたものがあるわけではないですが、少なくともそういう後ろめたさを覚えなくてすむ程度には、自分の意地を貫き通して一生懸命やりきれたかなと思います。
今回、自分から退職を申し出ておきながら、正直、引き止めていただけたのもすごくありがたかったし、申し訳ない気持ちもありました。でもそれ以上に、最後には新しい環境でチャレンジすることを快く応援してもらえたこと、本当に感謝しています。

「未来には運命なんてないと思え 過去は正しく定めと思え」。

未来はこれからいくらでもいい方向に変えていけるし、今まで過ごしたすべてがあってこそ今の自分がいる。その昨日までの過去が正しかったと証明できるような、そして「あいつは新しい道を選んでよかったんだ」と思ってもらえるような活躍を見せるのが、お世話になったみなさんへの何よりの恩返しだと思っています。見ててください。

 

これからは、ライフワークとして掲げている「あらゆるクリエイションに対してきちんと評価と対価が巡る仕組みをつくる」という思いを形にすべく動き出すきっかけになったイベントや、プロジェクトデザイン講座で関わらせてもらった、そして今これを書いている場所でもある株式会社ロフトワークに、縁あってジョインさせていただくことになりました。

どうやって前述のライフワークを実現させるか、と考えた時に、思いの強さで負けることはないけれど、形として実現させる力が足りないと痛感していました。実際の制作の現場で、喉から手が出るほど欲しいつくり上げるというスキルと経験を積めるし、何より「クリエイティブを流通させること」をミッションに掲げてクリエイターに活躍の場を創り出しているロフトワークのベクトルは、そのまま自分のベクトルと一致している。これ以上ない環境だと思います。
もちろん、勉強しに行くわけではないので、 もっともっとロフトワークを面白くできるように、新しい風としてこれからのロフトワークを一緒につくっていけるように、精一杯頑張ります。

 

今まで積み重ねてきたものには自信を持って、これからの経験には素直に。

どうもありがとうございました!そしてよろしくお願いします!

あるドメインの物語 by Yuki Takai

2年前、ひっそりとひとつのドメインを取った。
放置したままで迎えたそいつの更新通知がメールボックスに届いている。
 
***
 
一説によると、人間の人格・志向の根本はほとんど15歳までに決まるらしい。
俺の場合、それは14歳だった。
 
「整髪料はつけてはいけません」
「靴は真っ白な運動靴でなければいけません」
「ジャージのファスナーは開けてはいけません」。
 
「中学生らしい身だしなみ」ってなんだよ。
「校則だから」の一言で権威的に抑えつける不条理さ、最初はそれに対する反発が種だったのかもしれない。
まあ、どこの中学生でも通るような他愛もないことだけど。
 
はっきり意識したのは中学二年のとき。
 
エキセントリックな少年犯罪が相次いで起こった。
「キレる17歳」というラベリングが広まるのはすぐだった。
 
青少年はモンスター扱い。
 
もちろん法を犯すのは決して許されることではないし、彼らを擁護するつもりは全くないけど、なんか違う気がした。
俺たちのなにを知ってるの?
「心の闇」なんて曖昧な言葉で分かったように自分たち青少年を語る大人が憎かった。
それを煽って拡散するメディアも嫌いだった。
 
だったら俺がそちら側の人間になって、若者の思いをちゃんと伝えて見せてやる。
「ジャーナリスト」。
将来の夢として具体的な職業を思い描いたのはこれが初めてだった。
今思えば甘すぎる考えだと思うけど、会社とか嫌いな大人の組織に近づきたくなくて、フリーでも成り立つ仕事っていうのも大きかったと思う。
 
そんな中学への反発で、高校は地域でいちばん校則がゆるいところを選んで受験した。
 
部活はずっとやりたかった軽音楽部でバンドを組んだ。
当時は青春パンク全盛。コピーバンドだったし、そんなに上手くはなかったかもしれないけど、楽しかったんだよね。すげー楽しかった。
うるさいって言われて、部室が教室からプールの更衣室に追いやられたのもいい思い出。
スタジオとって、ビラ刷って、チケットつくって、イベント組んで他校のバンド仲間たちとライブして。
バンドに明け暮れたってほどじゃなかったかもしれないけど、モッシュとダイブとoiコールに満ちたちっちゃなステージはそのまま青春。
 
大学は、メディア論が学びたくて社会学系の学部を目指した。
第一志望の決め手は、その中でも二年からゼミで専攻できるところ。
 
サークルは、ステージに立つだけじゃなくて、ライブっていうあの空間自体をつくる側からの景色ももっと見てみたくて、ライブイベントを企画・運営するところに入った。
コンセプトの立案からブッキング、協賛営業、ビラまき、設営・運営まで、全部自分たちでやった。
一年かけて文化祭やってるような感じ。
勉強がてら夏フェスにスタッフバイトしに行ったりもした。
 
ロゴのラフ案とか書いて持っていったりしてるうちにイベントパンフレットの制作をやらせてもらえることになって、このとき始めてイラレにさわった。
いま思うと、パンフレットの制作なんて三年の先輩にとっては最後の思い出になる仕事だったのに、入ったばっかの一年生だった俺にかなりの裁量を任せてくれたことは本当にありがたいと思ってる。
 
緊張で声震わせながらTRICERATOPSにインタビューしたり、印刷所に持って行っては突き返されてやり直したりしながら、徹夜で入稿ギリギリに刷り上げた5,000部。誇らしかった。
 
イベント当日の開演前、たくさんのお客さんがフロアに座って読みふけってる。
会場警備しながら横目で見たその光景は、俺にとっては正直、ライブアクトと同じくらいぐっとくる瞬間だった。
帰るとき、大事そうにカバンにしまってくれる光景も、わきあがるオーディエンスの歓声と同じくらいに最高だった。
 
心底思った。
物でもイベントでも、やっぱり自分で手動かしててつくるのって楽しい。
それが喜んでもらえたとき、認められたときって、めっちゃ気持ちいい。
「ものをつくる仕事」について考え始めたのはこのとき。
 
それに加えて、当時はアートディレクターブームでデザイナーの独立とかクリエイティブエージェンシーが増えてた時期で、ものも作れる上にゆくゆくはフリーとか独立できる道があるかも、っていう不純な動機も手伝って広告業界が気になり始めてた。
デザインももともと好きだったけど、美大・芸大でもないし、文章書くのはわりと嫌いじゃなかったからコピーライターとかいいかも、みたいな。
貯金はたいて宣伝会議に通った。
 
三年にもなると、いよいよ先のことも考え始めるし、実際のところも直接見たくて、新聞社でアルバイトを始めた。
ジャーナリストなのか広告なのか、自分の中で見極めたかったのかもしれない。
 
日々、裏側から報道が生まれる現場を見るのはすごく刺激的だったし、記者さんやデスクが日夜遅くまで戦う姿も素直にすごいなって思った。
でも、当たり前だけどジャーナリズムは個人の主張じゃない。
自分の気持ちとは真逆の記事を書かなきゃいけないことももちろんある。
いや、むしろその方が多いかもしれない。
頭では分かってるつもりだったし、何の仕事をするにしてもそれは一緒だけど、中学のころ嫌っていたことを自分を騙しながらすることもあるのかと思うと、その葛藤に折り合いをつけて抱えながら俺にできる仕事じゃないなとも思った。
 
結局、何がしたいのかっていう問いに明確な答えは用意できないまま就活の時期は来て、色んな会社の説明を聞いた。
当然、そりゃどこだっていいことばかりアピールするし、そもそも今までがこういうナナメに見る感じできてるから、内心しらけて練習台にすることもあった。
 
でも、それでも。
どの企業も誰かを不幸にしようとなんてしてないんだ、何かしら、心のどこかにはほんのかけらであっても「世界をよくしたい、誰かの役に立ちたい」って気持ちを持って大人はみんな仕事してんだな、って感じることも意外と多かった。
あんなに憎んでいた大人たちも、そんなに悪くないのかも。
ちょっとだけ、そう思えた。
 
ふと、中学生の頃に広告で流れてた言葉がよぎった。
「ふつうの17歳なんか、ひとりもいない。」
au by KDDI、秋山晶のコピー。
 
正直、実際その当時はこの広告に特別な思い入れがあった記憶はないんだけど、このコピーを思い出したとき、線がつながった気がした。
ギラギラに大人を敵視してた14歳のころの自分がちょっと救われた気がした。
ああ、ちゃんと分かってくれる大人もいたんじゃん、って思った。
 
「大人」の社会活動である広告を通して、「大人」の社会活動である企業のいいところを伝えることで、
あのときの自分とおんなじように感じてる少年たちに、こんどは俺が「世の中、思ってるほど悪くないぜ?」って言ってやれたらいいな。
 
それが、本気で広告を志したきっかけ。
 
結局、入社したのはネットの広告代理店。
配属はアド・マーケットプレイスの新事業に乗り出したばかりの関連会社。
直接自分で言葉をつむぐコピーライターにはなれなかったけど、ベンチャーの戦う精神には響くところがあって入社を決めた。まあ、選り好みできるような選択肢はなかったんだけど。
 
働き始めて3年目になる。
正直、最初に思い焦がれた動機と現状とのギャップはあるよ。俺が今、閉塞感を感じてる少年たちに伝えられてることなんてない。
 
でもその間、インターネットの変化はめざましかった。
ソーシャルメディアが出てきて、色んなプラットフォームが出てきて、あらゆるところがダイレクトにつながれるようになった。あらゆるところからダイレクトに広がれるようになった。
 
大好きなあのアーティストに直接言葉を投げられる。
無名のミュージシャンが、プログラマが、一夜で有名人になる。
今ではありうることかもしれないけど、ちょっと前じゃ考えられなかったこと。
 
これはすごく大きなことだと思う。本当に。
 
プロとかデビューとか、今まで「上」に行く道は俺が敵視してたような体制とか権威が牛耳っていて
ほんのせまい何本かの道しかなかったけど、ツールやソフトの発展とか、ソーシャルメディアとかが一気にたくさんの近道をつくってしまった。むしろ道を広げて更地にしてしまったというか。バンプじゃないけど、まさに「360°すべて道なんだ」。
今までの体制とか権威とか、上下関係をひっくりかえす、これって俺は革命そのものだと思う。
 
その瞬間をネットの現場で目撃してる。立ち会えてる。
それだけでも、今この場所にいる意味はあったと思う。
 
七尾旅人が言ってる。
「例えば、島根県にいる子が100万ダウンロードとかいって、世界中に影響力を持つ可能性だってある。まだまだいくらでも夢を見れるんだよ」。
 
文章でも、音楽でも、アプリでも、ウェブサービスでも。
自分が生み出した表現って、大げさじゃなく自分の分身みたいなものだと思う。
そんな自分の分身が何らかの形で世に出て、他人に評価される。わずかでも誰かがお金を払って認めてくれる。
この資本主義社会の中で、俺はそれ以上に自己承認欲求が満たされることってないと思う。
俺ならすげーうれしい。どんなもやもやも吹き飛ぶくらいに。
そういううれしいことがもっと増えていけば、今の世の中をなんとなく覆う閉塞感なんてすぐになくなると思う。
 
その喜びを感じるチャンスはもう一部のプロとか特権階級だけのものじゃない。
 
俺自身はアーティストでもクリエイターでもないけど、だからこそ、もっと、ミリシャ(市民兵)の革命を見たいし、関わりたい。
 
きっと、つくること、つくるひとを増やすこと、つくったものを広げること、つくったものをきちんと評価すること、それらはぜんぶ、閉塞感やあらゆる抑圧に対するレジスタンス。
 
***
 
高校も大学も推薦とかAOじゃなくて自分でちゃんと受験することを選んだのも、ちっちゃいことだけどきっと今思えばそういう大人の手とか仕組みに将来をゆだねたくないって意識がどこかにあったと思うし、宣伝会議の広告講座で箭内さんの「風とロック 広告キャンプ」を選んだのも、やっぱりどこかで相通じる匂いをかぎとったからなんだと思う。
 
事業としては一時撤退を余儀なくされたけど、アド・マーケットプレイスにも、特権的な「代理店」の手から広告を「一般市民」へ開放できるんじゃないかって夢をみてた。
 
こうして振り返れば、
 
不条理な校則への反発も、
横暴な大人への怒りも、
かき鳴らしたパンクロックも、
若者やベンチャーへの共感も、
革命への憧れやときめきも、
 
気がつけば、いつだって俺を動かすエネルギーは権力や体制に対する反骨心だった。
 
紆余曲折してるけど、線は途切れてない。
 
***
 
2年前、取ったドメインは「revoltmark.com」。
 
「revoltmark」。反逆の旗印。
 
ちょっとカッコつけすぎな造語なのは自覚してるけど、ことの始まりが中二だから仕方ない。
 
このドメインでなにしてやろうか。
そろそろその旗をふりかざすときについて考えてみるのもいいかもしれない。
 
大人が嫌いだった14歳もとうとう、25歳のいい大人になります。
 
25歳を迎える夜の備忘録。